46歳で退職してブロガーになってみた

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23年前の今日(1・17)の阪神淡路大震災の記憶のハナシ

どうも、マスクド・ニシオカです。

本日は2018年1月17日でございます。

23年前のこの日、阪神淡路大震災が起きました。

当時兵庫県に住んでいた自分は、多少ですが地震の被害にあいました。

あれから23年経ち、だんだんと記憶も薄れつつありますので、まだ覚えていることを書き残しておきます。

 

なぜそんな早朝(5時46分)に目覚めたのか?未だにわかりませんが、 地震が起きる前の記憶があります。自室には出窓があってベッドに寝たままでも夜空が見えるのですが、まだ暗い夜空がピカピカと光っていたのを記憶しています。(地震前の発光現象?)

その次の瞬間、寝ていたベッドが下から大きく突き上げられ、完全なパニック状態となりましたが、部屋にある勉強机が倒れ、その勉強机にあったガラスが割れる音だけは覚えていて、「片付けめんどくさいなぁ~」と布団にもぐりこみ、そのときはちょっとした地震だろうと思って寝ることにしました。

しかし、よく考えると両親が下の階の水屋(食器棚)の前で寝ていることを思い出し、もしこの勉強机と同じように倒れているとしたら・・・下敷きになっている!と気がついて慌てて飛び起き、電気も点かず、倒れた勉強机から漫画やエロ本が飛び出して足の踏み場もなく、そのせいで動かない扉を強引に開けて部屋を出て、両親の無事を確認しました。

幸いにも大きな被害はなく、あるとすれば自室の勉強机が倒れたことだけでした。しかし、まだこの時点では電気が点かず状況も摑めす、家を出てご近所さんと顔を合わせて他所はタンスが倒れたり窓ガラスが割れたりしていることを知り、結構大きな地震だったんだなとわかり始めます。

徐々に落ち着いてきて、朝ゴハンをどうするか?となってコンビニまで歩いて行く途中、古い家屋の屋根瓦が落ちていたり壁が崩れていたりするのを見て、だんだんとこれはかなり大きな地震だとわかってきます。

 

コンビニに入ると酒ビンが落ちて割れてアルコールの臭いが充満していますが、店員さんは長蛇の列の対応に追われて片付けもできない状況です。自分と同じように朝ゴハンを求めて現れた住民に、ほとんどのおにぎりやパンなどは買い漁られ、残っていた食べられる物の中に「イチゴスペシャル」があって買った記憶があります。

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その帰り道、公衆電話で後の嫁さんとなる彼女の家に電話をしましたが、受話器の向こうは「こんな朝早くどうしたの?」みたいな感じで、地震がどれほどの規模かわかっていないようでした。後々この電話が彼女の母親のハートを射止めることになるのは、このときは露知らずというやつです。

父親が「きっと後回しになると時間がかかる」と機転を利かせて、近所のガラス屋に走り、我が家で唯一割れた自室の勉強机のガラスを買ってきて、それで地震による家の修繕は終わりました。

その当時トレーラーの運転手として、阪神間を走り回っていた父親は、我が家の無事を確認した後、カメラを持って自転車に乗って家を出ました。ラジオだったか何かで阪神高速が倒れたというのを聞き、毎日のように目にしていた、あんな巨大建造物が倒れるはずが・・・となって、自分の目で確認したくなったみたいです。

 

当時スイミングスクールでコーチの仕事をしていた自分は、たまたまその日は仕事が休みで、職場には無事を告げるだけで済みました。しかし翌日は仕事があり、職場のある古川橋(大阪府門真市)まで行かなければなりません。通勤路で使っていたJRは最寄り駅である立花から隣り駅である尼崎までの線路が歪んで電車が来ておらず、翌日は自転車で尼崎まで行って通勤した覚えがあります。もちろん職場付近に地震の影響はほとんどなく、物資も普通に買える状況でしたので、米と缶詰を大量に買って持ち帰った覚えがあります。

そのあとわかってきたことは、自分が住んでいた尼崎と隣りの西宮の間には大きな川が流れていて、その武庫川を挟んで被害の大きさが違ったようです。会社の人が西宮に住んでいて家が崩壊したと聞くと、自分たちは運良く助かったということを感じました。

さらに父親が撮ってきた写真、阪神高速が崩壊し、その下にある毎日のようにトレーラーで走っていた43号線がぐちゃぐちゃになっているのを見て、ガックリと肩を落とす父親の姿がよけいにそう思わせられました。

 

とりあえず記憶にあることを書いてみましたが、やっぱり23年も経つといろいろ忘れているようで、本当はもっと大変な出来事があったような気もします。電気ガス水道といったライフラインがいつ復帰したかも曖昧ですし、なんだか近所の公園で水の配給みたいなのがあってバケツを持って並んだ記憶もありますが、あれは別のときかと思ってみたり・・・

そして何より一番酷いのが、地震当時の妹の記憶がありません。当時二十歳前後だった妹が一緒に住んでいたのか、実家を出ていたのか・・・うんうん唸っても思い出せません。あんまりにも思い出せないので、妹に連絡して直接聞こうかと思いましたが、兄としての威厳をさらに落とすことになるのでやめておきます。

 

というわけで、23年前に生き延びた命を、今後もありがたく感じながら生き長らえたいと思います。

 

そして来年も同じことを書いて、自分の文章スキルがどれくらい上がったかを確かめる・・・前にこのこと自体忘れていそうですけどね。

 

でわ、股!!

 

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