46歳で退職してブロガーになってみた

働けおっさんブロガー

26年勤めた仕事を無計画に辞めたおっさんの生き様を綴る

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これまで26年仕事をしてきて一番しんどかったときのハナシ=後編=

どうも、マスクド・ニシオカです。

今回も「これまでに一番しんどかったとき」の話として、前回の続きを書いていきます。

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地獄の日々が始まる

現場責任者の仕事は、その現場を管理運営することであり、その仕事量は膨大なものとなります。責任者や支配人という役職名はカッコイイかもしれませんが、嫌な言い方をすれば「何でも屋」さんです。

  • 20名を越えるアルバイトスタッフの管理
  • 本社との予算などの交渉
  • オーナー会社への運営計画などの報告
  • 売上げや会員数を向上するための戦略
  • お客さまへの対応全般

カッコイイ言葉で仕事を説明すればこんな感じですが、現実はそんなものではなく…

  • 急にアルバイトが休みます!どうしましょうニシオカさん!
  • 設備が壊れました!どうしましょうニシオカさん!
  • 金庫のお金が合いません!どうしましょうニシオカさん!
  • 保護者が怒っています!どうしましょうニシオカさん!
  • 子どもがケガをしました!どうしましょうニシオカさん!
  • なんで去年よりも数字が下がっているの?どうするのニシオカさん!

責任者になったからといって、プールに入って子どもに指導をする時間がゼロになることはありません。その権限があるので多少減らすことはできますが、自分が入らない分をアルバイトに任せれば、それだけ人件費が増えるというアリ地獄のようなシステムが待っていて、結局は管理を任されている自分にブーメランなわけです。

当たり前ですが、プールに入って指導をしている間はデスクワークに当たる仕事ができません。自分の指導シフトをこなしながら、その時々に起こるトラブルを解消していくには、瞬間的に判断する能力が必要ですが、その当時の自分には備わっているはずもなく、全て後回しになっていきました。

社員スタッフは自分以外に3人いて、自分の部下となります。その部下に指示をする権限を持っていて、仕事を割り振れば自分の負担は減るのですが、予定が決まっている仕事は順番に割り振ることができても、急なトラブルに対してどういう指示を誰に割り振るかを決めることができず、結局は自分で背負い込むようになりました。

もちろん、それを見た部下は手伝いますよオーラを出してくれるのですが、それに応えることができません。例えば会社に提出する報告書があったとして、それを会社から指示を受けたときに、すぐに部下に説明して頼めばやってくれるのですが、自分があれこれ決めあぐねている間に時間が過ぎ、気がつけば締め切りギリギリになっている、から部下には頼めない、から自分でやるしかない…という勝手に自分で判断してしまう悪循環です。

そんな悪循環の歯車がくるくる回り始めたのは、責任者になってから3ヶ月が経過したころで、自分の顔から笑顔が消えていきました。もちろん、水泳のコーチは指導業である以上にサービス業ですから、お客さんの前ではニコニコ笑顔で対応して、スタッフルームに戻ればズ~ンみたいな感じです。

結局、仕事をこなすスピードは上がらずにドンドン溜まっていくので、朝から晩まで現場に残るようになり、さらにはみんなが帰っても帰ることが出来ず、最終電車の時間にも間に合わないようになり、現場に寝泊りする日が増えてきました。

 

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そのころ、お目付け役は・・・

そんな現場に流れ出した最悪の空気を察知したお目付け役は、その空気を浄化してくれました。仕事には一切の妥協を許さない厳しさを持つお目付け役ですが、仕事モードじゃないときはとてもゆかいで頼れる上司です。自分以外の部下には裏で上手くフォローしてくれていたようで、そのおかげで現場崩壊だけは免れていました。

しかし、当然ながら自分に対する手綱は簡単に緩めてはくれず、相変わらず尻を叩かれまくりです。いま思えばそれらは全てが、自分を一人前の責任者に育てるための「愛情」だったのだろうとは思えるのですが、その当時はそう考えることは出来ませんでした。

あくまでも憶測ですが、お目付け役は、ある程度の経験を積めば、仕事をこなすスピードも上がり、悪循環も解消され笑顔を取り戻すと思っていたのでしょう。ところがその目論みは外れ、どんどん深みにはまっていきます。

その当時、一度だけ現場の会議でお目付け役に問い詰められて、自分が「人が成長するには時間がかかるものだ」みたいなことを口にしたのですが、他の部下もこれを聞いていましたので、お目付け役は厳しく「それをいつまで待ったらええんじゃー!!」と問答無用で潰されました。それ以来、もう歯向かうというか反論する気力もなくなりました。

そこでお目付け役は、自身が持つ人心掌握能力を発揮するようになります。これはヤクザが使う心理術と同じで、優しさと怖さを上手く使い分け、相手をコントロールする技術です。簡単にいえば、自分が弱っているときにはやさしい言葉で語りかけ、それで気を許していると見るや、今度は一気に畳み掛けてきます。これが怖さだけが続くようであれば、単純に耐えられなくなって会社を辞めてしまえばいいのですが、それまでに世話になっているという事実と、時折魅せるやさしさに翻弄されてしまいます。まさに掌で転がされていたわけです。

ヤクザの実戦心理術―なぜ彼らの言いなりになってしまうのか (ワニ文庫)

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 しかし前述したように、すでに現場責任者候補生で出世レースに勝った、会社とすれば将来を期待した人間が辞めています。それがどれくらいの影響があったかはわかりませんが、自分も同じように辞めることになれば、今度はお目付け役の責任が問われるかもしれません。もちろん、それはお目付け役本人に聞いてみないとわからないですし、聞いても本当のことはわからないでしょうが、自分が辞めないようにコントロールされていたのはそういう背景があったからかもしれません。

 

このような生殺し状態になってしまいましたが、あくまでも、成長しない自分がドンクサイだけの話で、仕事がこなせるようになっていれば笑顔も戻っていたでしょう。そこから抜け出すのも、自分の力でやらなければ成長は臨めません。それは理解しているけれど、やることなすこと裏目に回ります。

仕事が片付かないのは、答えのない仕事に対してアイデアをひねり出す必要があったからで、時間をかければ終わる作業ではありません。とりあえず適当なアイデアを出して、それを提出すればいいのですが、仕事に妥協しないお目付け役がそれを良しとしません。その繰り返しで精神を蝕まれていた自分は、どんなアイデアを思いついても、どうせお目付け役に跳ね返される、という感情を持つようになっていました。

 

現場は山の中

その当時、自分が責任者を務めていた現場は山の中にありました。大阪の中心地から電車で30分、さらに最寄の駅からバスで30分くらいかかってたどり着く場所で、山を切り開いて住宅を建ててそこに交通網を延ばした土地です。

近所には商店とスーパーがありますがコンビには歩いて10分の距離、周りには家しかなくて街灯も少なく、夜中になれば走る車も少なくなり、信号機は「注意」を示す黄色の点滅に変わります。

自分は免許は持っていますが車を所持しておらず、バスの最終便を逃せば帰宅する方法はありません。部下が車で通勤していたので、たまに晩ゴハンをおごる代わりに家まで送ってもらったりしていましたが、部下の家は現場の近くで自分の家は車で60分、そう何度も頼めるものではありませんでした。(実際は何度も頼みましたが…)

「悪い、今日も帰れそうにない」嫁さんには出来るだけ明るい声で伝えましたが、きっとバレていたでしょう。かなり心配をかけてしまいましたが、嫁さんにもどうすることもできません。

 

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フラフラと山の方へ

そんなことが続いたある日、また仕事が片付かなくて現場に泊まることになりました。この日もアイデアをひねり出すために唸っている間に時間が過ぎ、気がつけばバスは来ない時間になり部下も帰っていました。

仕方がないので気分転換がてらコンビニに晩ゴハンを買いに行きました。街灯の少ない山の夜は暗く、それ以上に静けさが孤独感を高めます。

そのとき、ふと、真っ暗な中、うっすらと見える山を眺めて、「このまま消えてしまえば楽かも…」と頭の中で自分の声が聞こえてきました。これまでどれだけハードワークになっても、体力的にしんどいだけで精神的にはあっけらかんとしていましたから、初めての感覚です。

このまま仕事を続けても、自分が成長していることは想像できず、いつまでも悪循環が続くだけで部下にも申し訳ない、かといってお目付け役に相談しても、そのときだけは優しくされるけれど、仕事では妥協を許してくれないから、改善される見込みはない。そんなマイナスのことばかり考えてしまいます。

コンビニまで歩く途中、山の方へ進路を変えました。頭の中では何を考えていたかは覚えていません。ただ、そっちに行けば楽になるような気がして、フラフラと歩きました。しかし、自分が見ている木々が生い茂る山は遠く、歩いても歩いてもたどり着きません。そのうち「自分は何をしているんだろう?」と思い返し、コンビニに向かって引き返しました。

 

辞表を胸にお目付け役の自宅に奇襲を

それでも仕事は終わらないし、自分は成長しないし、今でいえば完全な泣き言ですが、その当時はどうにもできませんでした。

そこで、会社を辞める決意をして辞表を書き、それを渡すことにしました。しかし、それをそのままお目付け役に渡しても、まともに受け取ってもらえるわけがないと判断し、自宅を奇襲することにしました。

(このころは狂っていましたから、なぜ奇襲すれば受け取ってもらえるのか?自分でもよくわかりません)

日曜日の仕事が終わり、会社からの帰り道、そのままお目付け役の家の前まで行きました。しかし、その日は他のスタッフと飲みに行っていて、帰宅が遅くなることもわかっていましたので、じっと近所の影からお目付け役が帰宅するのを待ちます。

数時間経って深夜に近づいたころ、お目付け役が帰ってきたので声をかけました。お目付け役は相当驚いていましたが、すぐに自分の様子から事態を飲み込んだようで、近所の寿司屋さんに連れて行かれました。

そこで自分から会社を辞めたいことを伝えますが、とにかくお目付け役は受け付けません。

「辞めたいんです」

「あかん」

「辞めさせてください」

「あかん」

「辞めます」

「あかん」

理由もへったくれも無く、とにかく「あかん」の一点張りです。しかし、こちらも相当な覚悟で奇襲しているわけですから、そう簡単に「わかりました」とはいえません。寿司屋の閉店時間となり、公園に場所を移しますが大量の蚊に耐えられず、最後はお目付け役の家で朝まで押し問答が続きました。

結局、お目付け役は辞表を受け取りませんでしたが、こちらも首を立てに振ることはなく、出勤時間があるからと別々に現場に向かいました。自分としてはこれで何かが変わるという感触はなく、いくらこうやって訴えても、結局は掌で転がされると思っていました。

ただ、本気で仕事を辞めるならば、どれだけ周りのスタッフに迷惑がかかろうとも、現場に行かず、飛んでしまえばよかったのです。しかし、お目付け役がどうなろうとも知ったこっちゃないですが、部下にだけは不義理をしたくありませんでした。こんなダメな上司ですが、それをなんとか支えようとてくれた人間に、後ろ足で砂をかけることは、メチャクチャかっこ悪いことだということは、いくら狂っていても理解していましたので、辞めるにしても筋道だけは立てようとしていました。

 

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うつを疑って心療内科に行く

こんなことがあってから、自分が追い詰められていることを強く認識し、嫁さんにもしんどいことを告げました。嫁さんはそれを聞いて戸惑ったかもしれませんが、無理せず休むことも、いざとなったら会社を辞めることも勧めてくれました。

そこで、会社にもお目付け役にもそのことは伝えず、なんとか休みが取れた日に心療内科を訪れることにしました。これまで自己診断だったものを、ちゃんとした医師に診てもらうことで、何か光が見えるかもという考えです。

簡単な質問に答えるテストと医師との会話が、始めての心療内科となりましたが、これまで自分がしんどいことを誰かに話すことが出来ず、相当溜まっていたのか、初対面の医師にかなりの時間を割いて聞いてもらいました。話を聞いてもらうことで、溜まっていたガスがシューっと抜けるくらい簡単に気持ちが楽になりましたので、もっと早く来ておけばと思いました。

行ったテストの結果は「うつの疑いがある」で、医師から言われたことで今でも覚えているのは、「会社の要求は天井知らず」と「8時間寝られる生活を目指すこと」の2つです。「8時間寝られる生活」はすぐにはできることではありませんでしたが、「会社の要求は天井知らず」という考え方は、その後の自分に大きな影響を与えます。

その後も何度か心療内科に通いますが、通うために休みを取れるようにする、という目的が出来たので、変な道筋ですが、多少仕事に対して前向きに取り組めるようになりました。

 

終焉は突然に

心療内科に通うことでガス抜きを行いつつ、自分のスキルアップを徐々にですが行い、さらに、会社とはそういうもの、つまり何だかんだいっても社員を利用することを優先するのが会社、という考え方になり、適当にやらないと自分がダメになると思うようになりました。

簡単にいえば開き直った状態なのですが、開き直ったからといって事態が急変するわけではありません。あいかわらずお目付け役には怒られますが、それでも「ハイハイ、自分が悪うございました」と心の中で舌を出すようにもなりました。

ただ、部下に仕事を振るのはなかなか進歩せず、仕事を抱える日々が続きましたが、それを見た部下の方が助けてくれるようになり、結果的には仕事をこなすことが出来るようになりました。

 

そんなある日、事態が急変します。

 

それまで現場にいたお目付け役が本社で勤務することになり、自分が完全な責任者になることになりました。自分としてはその時点でも、まだ仕事ができない責任者だとは思っていましたが、とりあえず運営を続けることはできていましたし、大きなトラブルは起きていませんでした。それを会社が判断したのかお目付け役が判断したのかはわかりませんが、結論として自分が現場を取り仕切ることになりました。

そうしたことで、とてつもなく大きかった重圧は去り、少しずつですが自分のやりたいように仕事をすることが出来るようになりました。もちろん、その後も失敗もしましたし、部下にも迷惑をかけましたが、会社に泊まることはなくなりましたので、ヘンなことを考えることもなくなりました。

 

後日談

こうやって自分が働いてきた26年の中で一番しんどいときは、しんどくなくなっていきました。なんだかもっとキツイ展開を期待(?)されていたかもしれませんが、逆にリアルな話ではなかったでしょうか?もう10年以上前のことですので、記憶違いもあると思いますが、創作ではなく本当にあった話で、それを繋いで書いております。

ここから後日談として、その後お目付け役との関係や、実は今、再び働き始めたのが、前回の話に出ていた、自分が頭を丸めてそれを汲み取ってくれた「担当部長」が社長の会社だったりする話を書こうかと思いましたが、また長くなってしまいますので、この辺で一旦区切らせて頂いて、再び書いてみたいと思います。

長くなりましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 

でわ、股!!

 

<追記>

で、書きました!

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