「自分の体から出たモノ」に対して、「愛おしい」と感じることがあります。
でっかい鼻くそが取れたら誰かに見せたくなるし、取れそうで取れないときはまるで化石を発掘する学者のように真剣にほじくって、成功したときのスッキリ感とともに「俺の体で作られたモノなんだなぁ~」みたいに愛おしく感じます。(どうでもいいことですが、正式名称も【鼻くそ】らしいです)
耳垢も同じで、たまにでかい耳垢が取れたら気持ちがいいし、綿棒で取れた汚れですら、「汚ね~」と思いつつも自分の分身のように感じることがあります。
そういえば鼻水。蓄膿症とはいかないまでも体調が悪くて頬の辺りに膿が溜まっている感じがあって、それが一気にズルズルズル~っと出たとき、あまりもの量に「どこに入ってたん!?」と驚きつつも、「よくがんばったなぁ~」みたいに嬉しくなります。
「鼻にあるから鼻水」なのに「それが喉に移動したら喉水、じゃなくて痰」なのは不思議ですが、そんな痰も、カァーーッ!ペッ!ってやったときにしっかりとした粘度を持っていたら、「俺スゲー!」となりますし、下手したら「触りたい」と思うことすらあります。
オナラだって他人のを嗅がされたときは腹が立ちますが、自分のオナラが臭かったときはなぜかそれだけで笑ってしまいますし、それを容器に入れて保存して、誰かに嗅がせようとする人もいるとかいないとか。
他にも挙げたらキリがありません。へそのゴマ、かいた汗、切った爪、めくれた皮、ただの垢・・・、あ!これだけは語らせて!ニキビ!、昔からニキビが出来たら潰さないと自分に負けた気がするのでず~っと潰してきたのですが、それって普通じゃないと思っていました。しかし先日TVに出ている女優さんが同じことをしているとカミングアウトしていて、めちゃくちゃ驚きました。
話を戻しまして、つまり、なぜかはわかりませんが、自分の体から出たモノを愛おしく感じるのに、同じモノでも他人の体から出たモノは汚く感じるのです。
そしてこんなことを書きたくなったのは、先日「キング オブ 自分の体から出たモノ」であるウンチが大量に出て、それをまじまじと眺める自分がいたからです。
いつ食べた何なのかはわかりませんが、時間をかけて体の中を通り、栄養と水分を吸収して(されて?)から出てくる。それだけで体の神秘を感じますが、それがたまに大量に出てきたとき、トイレのレバーをちょいと動かせばそれで終わりだと思うと切なくて「もうちょっと・・・」と別れを惜しみつつ、「よくがんばったな」と労いの言葉をかけてからレバーをぐっと押して流すくらい、愛おしく感じます。
でも、他人のウンチは見たくも臭いたくもありません。当たり前ですが・・・
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しかし男である自分には、いくらがんばっても「出せないモノ」があります。
それは、赤ちゃん。
ここまで羅列した「汚いモノ」と「かわいい赤ちゃん」を一緒にするな!という声が飛んできそうですが、それはごめんなさい・・・。
ただ、トイレでウンチを眺めながら、ふと思ったのです。
「ウンチですら愛おしく感じるのに、もっと苦労して産んだ子どもの命を奪う親がいるって、なんなん?」って。
別に「全ての子どもを愛せ!」なんてことは言いませんが、せめて自分のお腹を痛めて産んだ子どもなら、愛おしく感じるものじゃないの?と思うのです。
もちろん「可愛さ余って憎さ百倍」とか「愛と憎しみは紙一重」なんて言葉があるくらいですから、簡単で単純なものではないのはわかっていますし、そんな親がほんのひと握りしかいなくて、ほとんどの親がちゃんと愛おしいと感じて育ててくださっているから、人類は滅亡せずに継続しています。
なので、そんな親はほんのひと握りしかいないとわかっているのですが、それでもたまにニュースとかでそういう人の存在を知ると、「なんなん?」と思っちゃうのです。
そんなことを書いている自分には子どもがいませんので、子育てを知らないオマエに何がわかる!という声も飛んできそうですが、それは仕方がありませんし、だから余計に思うのかもしれません。
そして、そんなほんのひと握りの親に対し、しつけと称して体罰を繰り返すことを法律で規制しようとする動きもあるようで、もう「ウンチですら愛おしく感じるのに・・・」なんて論法は、全く通用しない世の中になったんですかね~?
そんな大変な世の中になって参りましたが、今日もいっぱい何かを出しつつ、がんばって生きていきまーす!
でわ、股!!
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