どうも、マスクド・ニシオカです。
きっかけは、ブログと並行して行っているファイプロ動画配信(YouTube)への「6月13日は三沢さんの命日ですね」というコメントでした。
そこで三沢さんのメモリアル企画として、ブログの記事を書くことと、YouTubeに三沢さんの試合をアップすることに決め、その前に少しでも三沢さんに触れておこうと、本棚に並んでいる三沢さん関連の本を探していると・・・「アレ?この本は以前、ブログの読者様からのプレゼントでもらった本だ・・・」と思い出します。
そしてブログの過去記事を見てみると、昨年も三沢さんの命日記事を書いたことも思い出します。
やばい・・・50歳手前にして、もうボケたか?
ま、まぁ、毎日ブログを書いてるわけですから、ちょうど1年前ということは、少なくとも365記事は書いてきましたので、何を書いたか覚えていないというのは仕方がないわけで・・・という言い訳。
というわけ(?)で、今年も三沢光晴さんの命日として、1年前とは違う感じで書いてみたいと思います。
「人生たらればなし」ですが・・・
三沢さんが全日本プロレスの辞めたのは、社長という役職にありながら、ジャイアント馬場夫人である元子さんと意見がかち合い、自分がやりたいことができなかったというのが理由だといわれています。
それなら居酒屋でもやりながら、たまにプロレスができればいいやと軽く考えていたら、そこに賛同するレスラー及びスタッフがが大挙して、そこからNOAHという船が大海に出航することになります。
それから9年間、一度も欠場せずに戦い抜いた三沢さんの体はボロボロで、周りの関係者に「もう、やめたい・・・」と漏らしていたそうです。
それでも自身が休めばNOAHという船が沈んでしまう。そして地方のファン、かつて2代目タイガーや四天王プロレスで胸を熱くした、「また、三沢を見たい!」とチケットを買ってくれたファンを裏切るわけにはいかない、そういう想いがボロボロの体を突き動かしたのでしょう。
そんな三沢さんは、「人生たらればなし」という言葉を好んでいました。
前述したブログ読者様からプレゼントしていただいた本の最後も、こんな感じとなっています。
なので「もし、三沢さんが生きていたら・・・」というのも、三沢さんからは嫌がられるでしょう。
しかし、あれから9年経った現在も、NOAHは沈まずに進んでいます。
確かに何度か沈みそうになりましたし、新日本プロレスと全日本プロレスという2大メジャー団体と肩を並べていた頃の勢いはなくなりましたが、それでもなんとか進んでいます。
なのであのとき、完全に治すことは無理でも、体をオーバーホールするために休んでいたら、そして三沢さんが今でも生きていたらどうなっていただろう?という思いは膨らみます。
個人的にはジャンボ鶴田戦
三沢光晴と聞いて、どの時代が好きか?という話になると、こんな感じになるでしょうか。
- 戸惑いながらもやっていた、2代目タイガーマスク時代
- ジャンボ鶴田という壁を越えるために奮闘していた時代
- プロレス四天王の名に恥じない死闘時代
- NOAHの看板としての小橋との激闘時代
どれもプロレスラーとしては輝かしいもので、多くのファンは四天王プロレス時代に胸を熱くしたと思いますが、個人的には、巨大な壁として立ちはだかったジャンボ鶴田との戦いが、一番印象が残っています。
試合はもちろん面白いのですが、それ以上に観客の興奮具合が凄くて、さすがに会場である武道館で観たかった!とまではいいませんが、この時代にプロレスを観ることができて幸せだと思います。
で、恥ずかしながら、ファイプロでこれを再現するべく、試合動画を作りました。
さすがに本家の迫力には及びませんが、それでも楽しんでいます。
これまでに読んだ三沢さんの本
他にも三沢さんの本はいろいろ出ているのですが、本棚を調べてみるとこの3冊は読んでいました。
この中で自分が印象的だったのは、『三沢光晴外伝 完結編』の5章にある、「八百長への反論」という部分で、そこで3カウントを返せないときについて、こんな感じのことが書かれています。
「3カウントを許すのは、返してもそれ以上の攻め手が思いつかないとき」
つまり体力的には返せても、返したところでこれ以上攻めることができないと感じたときには、そのまま3カウントを聞く、つまり負けを覚悟するということです。
他にもこの本には、三沢さんのプロレスに対する考え方が詰まっているので、未読の方にはオススメです。
というわけで、本日はプロレスラー三沢光晴さんの命日でした。
最後は昨年も書いた、永六輔さんが残した言葉で締めたいと思います。
人間は二度死にます。
まず死んだ時。
それから忘れられた時。
大丈夫、三沢さんのことは忘れません。
でわ、股!!
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